プラットホームで人生を拾った男
朝九時、高校生だった俺はその日も西武線沼袋駅のプラットホームに立って迷っていた。上り電車に乗ろうか、それとも下り電車に乗るべきか・・・・。下り電車に乗れば三つ目の駅に学校がある。始業ベルはすでに鳴ってしまったが、今からもぐり込めば二限目からの授業はなんとか受けられる。まともな高校生ならば迷わず、いやちょっとぐらい迷っても、学校へ行く下り電車に乗る。そしてまともな人生を歩む。
逆にサボリを決めて上り電車に乗り込み、自分の良心にフタをして10分・・・・。チーン!すると、享楽の街、新宿歌舞伎町が眼前に現れる。ジョン・コルトレーンが死んだ一九六七年だって歌舞伎町は享楽の街だった。ファッションヘルスやテレクラはまだなかったが、入口の看板が違うだけで、中でやることは百年前からいっしょ(だと思う)の風俗営業店はちゃんとあった。八百屋のおかみさんがレタスやトマトを売るのと同じように、自分の体を売っている売春婦だって大勢歩いていた。「いらっしゃい!」と大声でいわないだけだ。
だけど朝はみんな寝ている。風俗店もポン引きも、そしてネズミも・・・・。かわりに朝から元気なのはジャズ喫茶だ。ベトナム帰りの黒人兵でいつもいっぱいで、終夜営業のヴィレッジ・ゲイト。タケシや永山則夫が働いていたヴィレッジ・ヴァンガード。ジャズ・ミュージシャンの溜り場ポニー。ゴキゲンなソウルも掛かるベイビー・グランド。店中白ペンキで塗りたくられていても、黒いジャズばかり掛かるジャズ・ヴィレッジなどなど。何軒もの店が昨夜のドロドロした喧騒を洗い流すように、朝っぱらからガンガンとジャズをまくし立てていた。何とか字を読もうとしているチンパンジーのように、ジャズをカジリ始めたばかりの一六歳の少年にとって、そこは聖地であった。ジャズが採れたてのイワシみたいに、ジャズ喫茶という網の中でピチピチ跳ね回っているのだ。歌舞伎町の店に共通しているのは、その当時はやりだった”お話厳禁”の芸術志向店がなかったことだ。多くの店がB級映画風B級ジャズ喫茶といった雰囲気だった。客種はマルミ(輸入ジャズレコード専門店で、通が通う店)のレコード袋を抱えて瞑想にふけりながら聴き入っている・・・・・・・・・と思いきや、グースカ寝ているズッコケ.ジャズファン。ナンパする腹づもりで店に入ったのに、首尾よくいかなくてその失望と嘆きをアルバート・アイラーの雄叫びにオーバーラップさせている大学生。ひげのレコード係のお兄さんに惚れていて、毎日通ってくる女子大生。マージャンのメンツを探しにくるチンピラのお兄さん。学校サボリのドロップアウト高校生(それは俺)。どんな客でも暴れ出さない限り皆おいで、というラフで人類愛に満ちた経営方針が好きで、歌舞伎町の店にはよく通った。なかでも俺が愛用したのはジャズ・ヴィレッジ。なんと午後一時までに入ればコーヒーがたったの五〇円だったのだ・・・・・。 さて俺は沼袋駅のホームの上でまだ迷っていた。今の五〇〇円玉ぐらデカかった当時の五〇円玉をポケットの中で握りしめて、何本かの上り電車と下り電車が行き違う様をボーツと見つめていた。
どちらに乗ろうか? 迷えば迷うほど、今から乗る電車の方角が自分の未来の方向を暗示ているような気がして滅人ってくる。 “俺の未来は、すでに歌舞伎町のゴミ置場に捨てられているのだろうか?” 人生の岐路に立たされた人間のように思い悩んだ揚句、その朝も歌伎町ジャズ喫茶行きの上り電車に乗ってしまうのだった。そしてその選択が、俺にとって本当に人生の選択の始まりだったんだなアーと、思い知らされるのは、ずっと後になってからだ。 それから二年、時は一九六九年。マイルスデイビスがビッチェズブリューを録音し、大学生達はストライキを繰り返していた。俺は高校をうんざりする成績と素行で追い出され、風来坊として藤縢たる暗闇を生きていた。誰しも身に覚えがある--のだろうか--あの若かりし日のあてどもない暗闇である。ドストエフスキーを読んでも、大江健三郎を読んでも、少年ジャンプを読んでも?その暗闇と仲良くやっていく方法は書いてあるけれど、そこから脱出する方法は書いてない。俺は毎日、キズだらけのちっぼけなプライドと文庫本をポケットに入れて、いろんなジャズ喫茶の片隅にじーっと身を潜めた。そしてこんなはずじゃなかった自分のヘビーで暗い青春を嘆きながら、プレゼンツ・ミンガスのかすれた罵声や、マックス・口ーチのウィー・インシストの絶叫に心のひだを擦り寄せているのだった・・・。なんて書いているだけでも気が重くなってきちゃったけれど、あの暗くて重い時代のことが頭をよぎる時、時折恥かしくておかしくて、赤面しながら笑っちゃうようなこともついでに患い出したりして、救われたりもする。ちょうど、どんなに悲しい悲劇の芝居でも、中に必ずポケッとした息抜きの笑いがあるようなものかなー・・・。
ある時、ジャズ・ヴィレッジ(その頃はモダンジャズ・Vと改名していた)に居た時のことだ。背中と椅子が縫い合わさってしまったと店員に思われるぐらい何時間もネバって、文庫本を読みながら時問をつぶしていた。時間だけは空気のようにいくらでも所有していた。眼が疲れたので顔をあげる。夕暮れ時のせいか店が結構混んできた。ちょうどその時、ちょっと化粧は濃いめだが、仲々イイ女がひとりで扉を開けて入ってきた。店中見渡すと俺の前と隣の席しか空いていない。その女は運命に導かれたように俺の前に立って、「座ってもいいかしら?」といった。 俺は少々の動揺を隠しながらさりげなく「どうぞ」と答えた。その時、ジャズ喫茶の黄金時代には、どの店も相席はごく普通のことだった。ただその女がかなりの美人で、大人の女であったことが非日常的ではあった。その女は俺の前の席に腰掛けてビールを注文し、シックにグラスを傾けた。俺は再び文庫本の世界に戻る。全く別々の世界。それでおしまい、のはずだった。だってTVドラマではないのだ。ところが、彼女が中ビンの半分ぐらいビールを飲みほしたあたりで、地球が逆廻りしだした。
何故って?彼女が俺の靴を踏み始めたからだ。凄く高価そうで美しい彼女のハイヒールが、俺の安靴を優しく踏みつけるのだ。まるで何かのサインのように。最初は何かの間違いで--テーブルの足台か何かと、俺の足とを間違えて--踏んでいるのかと思って、足をずらした。するとずらした俺の足の上に、再び彼女のハイヒールが乗っかってくる。ちらりと彼女の顔をのぞく。でも全く知らん顔。そして時々トントンとモiルス信号みたいに足踏みさえするのだ。それが音楽に合わせてというのでもない。何か意昧があるのだろうか?というより、これで何にも、意味がないのだろうか! もう俺の靴なんか泥だらけになってもいい。革靴から微かに伝わってくるドキドキする何かの予感・・・・。もう文庫本どころではない。テーブルの下での秘やかなできごとだ。周りの碓も気がつきゃしない。さて俺もサインを送り返さなくてはならない。もう一方の彼女のハイヒールを踏み返すというのはどうかな?いや野暮だ。とりあえず何か話しかけてみよう。そこで俺は思いきって、「あのー」と、言葉にならない声をあげた。と同時に、入口の扉がバタンと開いてテカテカしたダークブルーのスーツでバッチリ決めた大柄な男が入ってきた。サングラスこそしていないが、ひと目でその筋の人と分かる。彼はグルッと店内を見廻して、俺の靴を踏んでいる女をみつけるとスタスタこっちに向って歩いてきた。そしていきなり俺にいった。
「テメー、人の女にちょっかい出しやがって・・・・・・」じゃなくて、「あんちゃん、そこ空いてるかい?」と。俺の隣の席を指して優しく尋ねるのだった。とはいっても、頭が空っぽになっちまった俺が三秒おくれで、「どうぞ」っていう前に、もう座っていたけれどね。俺の靴を踏んでいる女は「遅かったわね」とその大男に艶っぽく抗議してから振りむきざまに、店員にビールをもう一本注文した。その際に俺の靴の上のハイヒールはどかされた。俺は「ホッ」とするのと同時に、妙にガッカリ。複雑な気持であった。今にして思えば、一八才の純情な?少年を、男が来るまでの暇つぶしにからかってやろうという、とんでもない女だったわけだ。このようにジャズ喫茶は人生修練の場でもあるのだョ。それにしても女って小憎らしくも面白いことするよな、今も昔も。
さて滑稽にして重くて暗い俺のジャズ喫茶通いは、相変わらず続いていた。しかし段々ジャズを聴く耳ができてくると、ジャズ喫茶の雰囲気を楽しむよりも、ジャズそのもののほうが面白くなってくる。いつ聴いても眠くなるだけだったマイルスのCBS盤「マイ・ファニー・バレンタイン」に、ある日突然目覚めた時なんか、耳の中に詰まっていたシャンパンの栓が、耳クソといっしょにスポン!と抜ける音がしたし、ジャッキー・マクリーンのオールド・フォークスでヘソが震えるようにもなってくる。
“そう、おれもジャズがワカッテきたのだ”
ある日、中野南口にあったクレッセントに行った。この店はアルティックA7マグニフィセントのスピーカーを、マランツのアンプとオルトフォン、ガラード401のプレイヤーで駆動するといういぶし銀サウンドが売りものであった。レコード・コレクシヨンもオーナーの松田さんの趣昧で、’50~’60年代の白人ウエストコーストやハードバップがバランスよく揃っていて、オールラウンドにジャズが楽しめる。
その日店に入ると、トイレの前に『アルバイト募集』とある。まてよ、コーヒー代払って聴くのと、バイト代貰って聴くのとどっちが得か?夜は夜警のバイトがあるが、昼問はどうせ暇だ。それに数千枚ギッシリのレコード室に入って自由にレコードを手にとって観ることができるなんて、砂糖壷の中に入れてもらえるアリンコみたいなものだ。すぐに面接を受けた。歌舞伎町の深夜喫茶でバイトしたこともあるので、コーヒーやサンドウィッチぐらい作れる。いきなり翌日から働くことになってしまった。それからが大変だ。家でスイング・ジャーナルやシュワンのバックナンバーをチェックしてきて、店でそれを掛ける。初めて聴く盤は全部ノートする。店が暇な時はマスターに話しかけて知識を盗む。ジャズ喫茶のマスターの知識、判断は現場仕込みなので、仲々信川できる。彼はチャーリー・パーカー系白人アルトのP・ウッズ、C・マリアーノ、H・ゲラー等が好きだったので、そのての名盤珍盤が揃っていた。その影響で白人アルトの世界は今でも思い入れが深い。黒人差別がまかり通っている時代に、逆に天才黒人パーカーに傾倒し、師に近づこうと懸命に努力した若き白人アルト吹き達のいじらしさ。ジャズって社会通念をひっくり返したナチュラルな感動に満ちているのだ。もはやクレッセントは俺にとって、バイト代が貰えるジャズ学校であった。そしてジャズの懐の広さをじわじわと知ることになる。こうなると面白くてしょうがない。レコード棚の奥に埋もれている名盤をひっぱり出して掛ける。熱心な客がヘェーという顔をして「ジャケットをみせて」とくる。選曲していて一番うれしい瞬間だ。その盤に関して調べあげた知識を、生まれたときから知っているような顔をして披露する。客は満足気に席に戻る。俺は客の三倍満足する。(1)聴く満足、(2)イイことを教えた満足、(3)コーヒー代を貰う満足、カナ。
“こりゃイイ商売だ” そう、ジャズ喫茶はイイ商売なのだ、吹けば飛ぶような売上げにさえ目をつぶれば。だけどその頃は売上げのことなんか考えてもみない。面白い商売がイイ商売なのだ。 “だから俺も自分の店をやろう” この単純明快な発想が俺イントロの原点である。そうと決めたらあまり深く考えずに行動に移すのが俺のやり方だ。途中で行き詰まったらそこで考えればよい。全部パーになったらまたそこで考えればよい。何やったって生きてはいける。とりあえず今は月標ができた。暗闇から脱出する出口がみつかったのだ。とはいっても、ジャズ喫茶を開店するには何を準備すればよいのだ?まず思いつくのが開店資金とレコードだ。気合だけは充分あるのだから。金はいずれ親父を泣き落として、住宅金融公庫のローンが済んだら狭い自宅を抵当に入れて銀行から借金してもらおう。俺が一生プータローでスネカジリよりはましだろう(ほとんど恐喝だね)。 後はレコードだ。高校生の時から好きで買っていた二〇〇枚ぐらいのコレクションはあるが、これでは話にならない。
ここで当時のレコード事情を説明しておこう。とにかく毎月の国内盤発売点数が、昨今に比べてまるで少ない。もちろん新録盤は毎月出るのだが、そんなものはヤマハのバーゲンでいつでも買える。俺が欲しいのは’50年代のハードバップやウエストコースト・ジャズの渋い名盤群だ。ジャズ喫茶に熱心に通うファンに「ジャケットみせて」といわせしめる盤だ。レーベルでいうとプレステッジ、リバーサイド、ブルーノート、パシフィック・ジャズ他諸々のマイナー・レーベル。そんなものはとっくに市場から消えちまった後だ。たまに国内再発売されても、オリジナル盤とはイメージが程遠いヘンテコなジャケットに豹変しているし、カッティングが下手糞で音溝が浅く貧弱な音しか出ない。一九七四年にSJ誌から『幻の名盤読本」が世に出て、ジャズ界全体がいっせいに金を堀り当てたような発掘盤ラッシュに沸くまでは、このように貧困な国内盤事情があった。廃盤、輸入盤が欲しければ、中古レコード屋巡りをするか、アメリカにでも行くしか手はないのだ。
で俺はどうしたか。まず数カ月後、クレッセントのバイトをやめた。そして飛行機でニューヨークに・・・・・・といきたいところだったが、残念ながら中央線中野←→新宿、地下鉄線新宿←→銀座の定期券を買った。朝夜讐の仕事から帰ると、メシを喰って家を出る。日課の中古レコード屋巡りをするのだ。自優じゃないがレコード屋廻りをするために定期券を買った奴なんて、後にも化にも俺しかいないだろう。まず朝10時の開店時に、その日の新入荷中古盤を放出する新宿のトガワに行く。朝起きは三枚の得。10時に新人荷分を全部みてしまえば、その日はもうこの店に行く必要がない。ちなみにコレクター達が、中古レコード店でエサ箱(レコード陳列棚)を懸命に漁っているのをよくみかけるが、あれは一流のコレクターがやることである。俺みたいな超一流血迷いコレクターは、エサ箱にレコードが放り込まれる瞬問を捉えてパクッと手を伸ばすのだ。だから俺の通った後はペンペン草も生えない、などというとんでもなく楽しい噂が当時立ってしまった。10時半、オザワ開店。この店はジャズ評論家やコレクターが集う店として有名であった。面白い海賊盤をよく買った。お次は銀座ハンターに行く。この店は一日何回も新入荷盤の放出がある。客の数も多い。だから何度も足を運ばなくてはいいものは買えない。だけど時々はいいこともある。カウンターの隅っこで店の人が値付けをしている時に出喰わせば、エサ箱に入る前に売ってもらえることもあった。どんな珍盤でも一四〇〇円くらいである。でも俺と同じことを考える客が大勢増えて、結局ボツ。だから今日はたくさん放出がありそうだとみると、俺はずーっとエサ箱の脇に立っている。そうなると「やあ、また会ったね」という具合に、同好の士と知り合いになる。顔はニコニコ、腹の中は出し抜かれまいと必死である。帰り際、コーヒーをすすりながらトレード話に花が咲いたりもする。この当時知り合えて、いろいろ教えて頂いた方に佐藤秀樹さんがいる。一度目白の御自宅に伺った。レコードで埋め厚くされた部屋で佐藤さんに、彼の愛するピアニスト、バド・パウェルの、ボロボロに磨り減った珍らしいノグラン盤を聴かせて頂いた。佐藤さんが二言三言説明してから、気持を込めて盤に針を落とす。その時ほどパウエルが美しく聴こえたことはない。佐藤さんが掛けるバド・パウエルは、彼の愛着が乗り移って特別なものになる。バドじゃなくてグッドになるのだ。レコードだって愛してやれば、その愛に応えるのだということを、その時知った。愛などと大げさなものでなくてもいい。郷愁でもいい。ひょっとして憎悪でもいい。一枚一枚その盤への何かしらの思い入れが欲しいのだ。それがなければ、金に飽かして買った何万枚のコレクションをいばっても、それはただの燃えないビニールのゴミの集積でしかない。先ほど、ジャズ喫茶開店のために必要なものというのに、開店資金とレコードと並列に記した。だけど金さえあればレコードぐらいまとめて買えるじゃないか、と訝った人もいると思う。が、俺がいうレコード・コレクションとは、自分の思い入れが染み込んでいて、掛けるたびに思わず二タッとしたり、泣きたくなったり、あたりかまわず能書きを垂れたくなってしまう盤が、スクラムを組んでレコード棚で出番を待っている状態をいうのだ。そしてそういうコレクションこそが、ジャズ喫茶の財産なのだ。
さて俺の中古レコード屋巡りは続いていた。レコードを廻すというより、レコードの廻りを俺が目をまわしながらグルグル回っているような生活だった。ある時気が付くと俺は二十歳になっていた。そして時代もジャズも、一九七〇年代に入り、大きく変わりつつあった。大学に行った友達は、各々まともでもっともな悩みを抱えていた。俺の悩みは、タイム盤ブッカー・リトルを手に入れるためのトレード話がうまく運んでいないことや、イントロ盤アート・ペッパーが欲しいのに絶望的であること、などであった。その話を時々会う友達にすると、皆羨しそうな顔をして俺をみる。
“バカヤロー、考えることをやめた奴は強いのだ”
ちょうどその頃、水道橋神保町にあるレコード店がオープンした。トニイ・レコードだ。御主人はトニイ西島さん(生粋の日本人です)というSPレコードの世界的コレクター。アメリカから彼独自のルートでオリジナル廃盤が入荷するというので、さっそく行ってみた。行ったのが開店三日目。着いたらハンターの常連客がもう来ているではないか。先を越された。エサ箱に飛びつくが、開店日にはごっそりあったらしい飛びっきりの盤は、すでに消えている。それでも他の中古レコード屋とは並んでいるものが全然違う。きっとアメリカのレコード屋はこんなんかナ、と思った。少々気落ちしている俺にトニイさんが優しく、「また定期的にちょくちょく入荷しますよ」といってくれた。こうなったら毎日通うしかない。翌週、ちょうど切れかかった中野←→新宿の定期券を水道橋まで延長して購入した。それからはほとんど臼参だ。エサ箱の隅から隅まで毎日みていたので、どこに何の盤があるか覚えてしまったくらいだ。当時面白かったことといえば、試聴用のプレイヤーのことだ。客が試聴を頼むと、トニイさんニコニコして何でも掛けてくれる。それは今でも変わらない。ただ掛けるプレイヤーが、開店当初はSP/LP兼用機で、どちらかといえばSPを聴く合問に、ついでにLPも聴けますよといった古典的なタイプであった。なにせトニイさんは、ミスターSPなのだ。だからなんともゴツイ針であるばかりか、針圧が何十グラムもありそうなのだ。それと知らずに、買う気になった盤の試聴を依頼した客がプレイヤーをみて、あっ、しまったとばかり思わずたじろぐ。が今さらそのプレイヤーではやっぱり掛けないで下さいとはいえない。仕方なく一曲掛け終わるまで、鼻の頭をヤスリで削られているような切ない気持で待つのである。トニイさんはそんなこととは夢にも思わず、相変わらずニコニコして「どうですか、もう一曲掛けますか?」なんていっている。そんな時に居合わせると、俺は思わずクックッとおかしさがこみ上げてきたものだ。SPコレクターはおおらかで大ざっぱなのだ。それにひきかえLPコレクターは神経質な人が多いネ。でもその異常で面白い話を書き出すと、止まらなくなるからやめとこう。
さて頻繁にトニイさんの店に通うようになったある日、トニイさんから「うちで働かないかい」とお誘いを受けた。真昼問、毎日のように通っていれば、なんと暇な奴と思われたのだろう。俺にしてみればこんなうれしいことはない。二つ返事で「よろしくお願いします」と答えた。将来ジャズ喫茶をやるつもりでいること。そのためにレコードを集めていること。などなどを話すと、「頑張ってやりなさい」と激励してくれた。こうなったら仕事も頂張るぞ。今は本店ビルの他、吉祥寺にも支店があって大躍進中のトニイ・レコードだが、当時はトニイさん、奥さん、俺の三人所帯だった。それも今の隣のビルの狭い二階だったっけ。感慨深いものがあるなァ。さて仕事をはじめてびっくりしたのは、トニイさんのアメリカの多くの友人から実にたくさんのオークションの手紙が来ることだ。トニイさんの顔の広さに驚くのと同時に、そのオークションのチェックに追われて面白くも大変だった。その頃、クオリティーの高いオークション・リストのいくつかは、ミュージシャン名、レコード番号と会社名しか記入されておらず、タイトルが分からない。タイトルが分からなくては入札できないから、一点一点イエプセンや、シュワンで何百枚分も調べなくてはならない。これが大変な作業であった。英語辞書をちょっとめくれば眠くなる俺が、ジャズの辞書ともいえるイエプセン相手だと、朝から晩までみていても楽しくてしょうがない。これはやっぱり天職だったのだ。この頃の勉強の蓄積が、今の俺のジャズ知識の源になっている。さて、今では猫も杓子もオークションだ、それもベラボーに高い値段でなくては落札しない。当時’70年代の前半には、東京のトニィ・レコードと入阪の阪根楽器店くらいしかオークションの存在を知る業者がおらず、ひと桁ドル台で多くの盤を落札できた。当時は一ドル三○○円。それでも昨今の廃盤価格に比べたら安いものだ。オークションのことで忘れられないのは、シグネチャア盤レイ・ブライアントがリストにあった時のことだ。俺自身欲しくて欲しくてしょうがない。もちろん国内盤など出ていない。リストをみるとP(プァー、盤質メチャ悪)のセクションにある。Pセクションの但し書きをみると、「非常に盤質が悪いので、このセクションは全て一ドル以下で入札せよ」とある。俺はやった!と思った。そう書いてあれば、善良な市民は正直に一ドル以下、詐欺師でも四~五ドル、アラブの王様でも一〇ドル以上で入札するようなバカな(実はリコウな)奴はいまい。そこで俺は一八ドルと書いた。その上トニイさんに「この盤はどうしても欲しい」と、一筆書き添えをお願いした。そうして当然落札した。盤はガタガタだったが夢にまでみたレイ・ブライアントが俺に微笑みかけたのだ。その時も、そして今もそう思うのだが、オークションというのは上限がない。人問の欲望に比例してどんどん吊り上がる。昨今の何十万円という値段はすでにレコードの価格ではない。その盤を自分が所有すると小う満足度の価格なのだ。だから他人が「そんな高値で買って・・・・・・」などと非難するのはあたらない。ある人が、自分の満足に対する代償をいくらに決めようが、口出しする必要はない。大きなお世話である。ただトニイ.レコードと取引があったLAに住むオークション・ディーラーが、日本人相手に手広く商売を始めたおかげで、プール付きの豪邸を建てた話を聴いた時は、ちょっと複雑な気持ちにさせられた。
トニイ・レコードで働いて面白かったことといえば、ある日レコードが大量に入荷した時のことだ。ダンボール箱に詰っているレコードを取り出す作業をしていると、なんと超幻の名盤、トランジション盤セシル・テイラー「ジャズ・アドバンス」のジャケットが、パッキン用ダンボール代わりに出てきたではないか。いくら探しても残念ながら中身は無かったが、非常に珍らしくてほとんど誰も聴いたことがないし、どこのジャズ喫茶にもない程の珍盤だ。すぐに店の壁に額に入れて飾った。そして三年後、ジャズ喫茶開店準備のため、俺が退職した時、トニイさん自らの手で額に入ったジャズ・アドバンスを取り出して俺にくれた。その時は思わず涙がこぼれそうになった。
いやはやトニイ時代は実に楽しかった。こんな楽しく仕事をしていられるのならずっといたい。けれども自分が決めた道はどうなるのだ。このままでは居心地が良くて、浦島太郎になってしまう。ぼちぼち動き出す時機が到来したようだ。
トニイ・レコードを辞して店の場所探しを始めた。高田馬場に一一坪強の物件がみつかった。保証金が坪当たり五五万円、家賃が坪当たり一万円だった。オイル・ショック直後の一九七五年で、何でも値上がりしていた。工事代が四七五万円の見積りだった(人問必死にやった時のことは細かいことまでよく覚えているよナ)。何だかんだで一五〇〇万円必要だ。予定通り親父を泣き落として、全額銀行から借金できるようになった。実はここまでこぎつけるには、俺の大の恩人であり、友人でもある山田勉さんの力添えがあった。山田さんは大のジャズファンにして社会的ステイタスのある方だ。柔軟な感性の持主でもある。サッチモからセシルニアイラー、ハードバップやニューマイルスまでも聴いてしまう。そのうえ気さくだ。それで俺みたいな半端な若造とも気持よく付き合ってくださるのだ。ある時何かの拍子に、将来ジャズ喫茶をやりたいが資金調達のメドがたっていないことを話すと、山田さんは即座に「その時は僕が何とかしてあげよう」といってくださった。青天の霹靂である。そして本当にその通りになった。俺にもやっとツキが回ってきた。
さて銀行の月々の返済は三〇万円弱、七年完済である。それが返せなければ一家が路頭に迷う。朝10時から深夜12時までほとんど俺ひとりで働いたとして、一日最低二五〇〇〇円以上売上げがあればなんとかやっていける。そのくらい何とかいけそうだが、それでも心配だ。そこでトニイ時代からの知り合いで、吉祥寺のジャズ喫茶ファンキー、アウトバックのオーナー、野口伊織さんに物件をみに来てもらった。彼にはトニイ時代に高い廃盤をいっぱい売りつけていたので、よほど俺が商売上手だと思ったのだろう。「茂串ちゃんならばチベットでジャズ喫茶をやってもうまくいくよ」と軽妙なしゃれをいって励ましてくれた。その頃彼は、吉祥寺サムタイムの開店準備に追われていた。そこで同業者研究と称して、連れ立ってよく飲みに行った。最初のうちは勉強になるのだが、二、三軒ハシゴをすると酔払って翌日何も覚えていないなんてことがしょっちゅうだった。なんとも二日酔を反省することが勉強なのであった。未だによく一緒に“同業者研究”をやっているが、彼と一緒だとバカになり切って飲めちゃう、実に楽しい酒なのだ。今にして思えば、俺の飲んだくれ癖の発生源はこの頃かもしれない、などと人のせいにしてしまおう。
一九七五年八月二十五日、ついにイントロは開店日を迎えた。そして朝10時、開店後10分でなんと満席になってしまった。まるでパチンコ屋の新装開店セールだ。俺は緊張と感動のあまりコーヒーをたてる手が震えてしまった・・・・ー、とここまで書いて十五年後の今、この原稿を書いているイントロ店内を見渡すと、客がたった三人。一人はグーグー眠っている。やれやれ十五年の間にジャズはどうなっちまったんだ。ジャズとジャズ喫茶の問柄にしたって昔はうまくいっていた。まるで長年連れ添った夫婦のように。それが最近別れ話を持ち出す店が多いではないか。
でも俺はやめないぞ。自分の青春の全てを費して情熱を傾けた“ジャズ”という音楽の未来の姿を見届けるまでは。そしてもしジャズがいつか死んでも、イントロは生き続けてその語り部となり、ジャズヘの熱き想いを語り継いでいくのだ。
1991年5月 『おれたちのジャズ狂青春記』(出版:ジャテック・ジャパン)のために執筆
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