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2000年頃のスイングジャーナル誌に掲載

それは10年前の、或る日のこと。月1回、仲間内のお遊びで演っていたジャムセッションの日、ドラマーが誰も来ない数時間があった。いつもは、演奏の順番を仕切るだけだった俺が、運命の糸にたぐり寄せられるように、空席のドラムに向かって歩いていった。「俺が叩く!」バチの持ち方さえ知らないのに…でも店主が叩くっていうんじゃ、共演者諸君も、仕方なく付き合わざるを得ない。そのようにして、40歳で、生まれて初めてバチを握り、そして叩いた…ひどい演奏だったのだろうけれど、曲がステラだったこと以外、何も覚えていない。ほのかな快感が、後で静かに、俺の胸にこみ上げてきた。俺もいつか、フィーリー・ジョーになれる!?

このドラム初体験が、普通の?ジャズ喫茶だったイントロと俺の、その後の運命を左右することになる。何せ今じゃあ、毎週土曜日、素人、プロ入り乱れてのジャムで盛り上がる。さらに最近、平日昼間の1、2時間、プロを目指すミュージシャンを集めて、真剣修行ライブなるものを始めた。熱心なミュージシャンに、練習の場を提供しつつ、彼らを練習台に、俺も上達してやろうという作戦だ。コーヒー代もちゃっかり頂いてしまう。レコードの名盤を聴くつもりで来たお客さんも巻き込んで、みんなで楽しめる空間にしちゃうのだ。うまくいけば、21世紀ジャズ喫茶の、模範スタイルになる…わけねーよな。 ところで長年、ジャムを続けていると、超大物が時々来てくれる。日野皓正・元彦兄弟が来てくれた時は、最高だった。ちなみに、ジャムは前金制。演奏する人も聴く人も、先に千円払って飲物付、が基本。とはいっても、日本ジャズ界を代表するジャズメンが「イントロで、熱心な若者達がジャムっている」との噂を聞きつけて、わざわざ訪ねてきてくれたのだ。俺が授業料を払っても当然の場面で、入場料を頂戴するなど失礼、と思い、千円払おうとする日野兄弟に、「ご馳走させて下さい」と、言ったのだ。ところがお二人は「いいよ、払うよ。だって俺達、練習しに来たんだもん」などと、オチャメなこと言って、払ってくれちゃった。大物は違うわ。それにしても、天下の日野兄弟から金とって演奏させちゃう、なんて本当の…バチ当たりな幸せ者は、世の中広しといえども、俺ぐらいのものだろう。ガハハ。

それからが凄かった。ヒノテルやトコさんと共演できる!そんな夢のようなことが、現実になったのだ。ジャムに来ていた皆、大喜び。なんと翌朝まで、全員ヘトヘトになるまで激演した。フィナーレは、日野元彦への当たり稽古。ドラマー以外の全員を相手に、1曲1時間に及ぶ大セッション。あの時居合わせた連中が集まると、今だに思い出話に花が咲いてしまうのだが、あんなゴキゲンな夜は滅多にない。その夜、トコさんに頂いた彼のネーム入り、パール製121ヒッコリーのバチは、彼の若き日の代表作「流氷」のレコード・ジャケットの中に入れて、お葬式の日以来、イントロ店内に飾ってある。
さて、トコさんが亡くなって一周忌。六本木アルフィーでは、追悼特番に大勢人が集まったと聞く。トコさんの愛弟子で、プロデビュー以前、熱心にイントロ・ジャムに来ていた力武誠も、急成長して素晴らしいドラマーに化けた。俺もぼやぼやしていられない。来年50歳、このままジジイになっちまう訳にはいかない。ドラマーとして、なんとか掴みたいのだ、ビートのうねり感覚を、グルーヴするジャズの本質を、そして女の子のハートを….おっと、いけねー「そんなこと言ってるから、マスターのタイコは、チンチキ、チンチキ…じゃなくて、インチキ、インチキって聴こえちゃうんだよ」って言ってた、トコさんのセリフを思い出しちゃった。

ジャズ喫茶の親父と、素人ドラマーの二股かけて、はや10年。最近やっと、ひたすら地味にフツーの演奏をすることの、難しさと面白さが少し解るようになって、謙虚になった?俺だ。真のドラマーへの道は険しいが、楽しく練習を続ける意志と、強靱な遊び心で、いつかモノにしてやろうと思う。

2000年頃のスイングジャーナル誌の原稿です。

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